- 参加者
- 木部雅也、長濱秀幸
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2016年4月14日21時26分熊本を中心として、最大深度7の大地震が発生しました。
その後、実際の本震といわれる震度7の地震が4月16日1時25分ころに発生したのをはじめとして、余震の回数は1000回を越えています。
私たちは「何ができるのか」というより「何をしていかなくてはならないか」を考えなくてはならないと思っています。
その上で現地の状況を知ることは、まず絶対に必要であると考え、被災された方々に極力ご迷惑にならないように、熊本を訪問させていただき、状況を自分自身の目で見て、お話を聞かせていただいてきました。
以降、時系列で私たちの訪問した場所を記載します。
2016年4月28日
・熊本へ
福岡空港から入り、レンタカーを借りて熊本へ。熊本の手前の植木インターから通行止めだったため、(29日に開通)そこから国道3号線で南下。
事前の情報やタクシーのドライバーの話によると、大渋滞が考えられ5~7時間程度かかるのでは、とのことだったが、渋滞は一切なく2時間ほどで熊本市内へ到着。
(ただし、この日の1週間前などは実際に熊本まで5時間程度かかっていた、と実際に福岡から熊本に行ったタクシーのドライバーは言っていた。)
・熊本市内
市内アーケード街特に目でわかるような大きな倒壊などは見られなかったが、休業や閉店している店舗は多く見られた。店舗や道などには亀裂などが多々見られた。
辛島公園社会福祉協議会によるボランティアセンターが設置されていた。住民が相談に来て、ボランティアの依頼をし、それに対して対応する流れをとっていた。
ボランティアは全国から募集していたとのこと。
熊本城報道の通り、シャチホコはなくなっていて、外壁も崩れている所が多数見られた。
市役所避難所兼、情報の集約場所となっていた。
自衛隊や配水車があったが、配水は4月28日で打ち切りとのことだった。実際私たちがいた時間で水をもらいにくる人はほぼいなかった。
市役所にいる避難者数は市役所側でも把握はしきれていないとのことだった。【写真館 熊本市内 ボランティアセンター】
【写真館 熊本城市役所周辺】
・広安小学校(益城町)
14日の地震で最も震度が大きかった益城町の指定避難場所になっている広安小学校へ訪問。
校舎などで生活している避難者数は400人程度、校庭などに駐車して車の中で生活している避難者数は300人超ではないかとのことだった。
校庭は一面車が駐車していた。
支援物資に関しては体育館で管理していたが、その他の避難場所との不公平をなくすため、また体育館を空けて避難者の生活場所を教室から体育館へ移し、学校の授業を再開するため、一旦各避難場所から物資を近くのJAに集約し、そこから必要なものを避難場所へ再分配する流れに移行するとのことだった。
この体育館で物資の管理をしていた青年は、地元の方ではなく、長崎から単身この小学校に来て、やれることをなんでもする、と頼み込んで地震翌日から泊り込みで支援活動をしている方だった。
また、この小学校には医療班としてNGO団体のAMDAが入っており、災害時医療を支えておられた。AMDAの責任者の方や、皆さんに色々と地震が起こってから医療チームの立ち上げ、様々な問題点、今後の問題提起など、とてもご親切にお話を聞かせていただいた。
ちなみに、責任者の方はご家族が益城町にお住まいで、地震翌日に実家に来られ、状況を目の当たりにし、広安小学校に即座に医療拠点を作ることをAMDA本部に申請したとのことだった。そして災害時医療を司っているのはAMDAのような外部からの組織であることが、ほとんどだった。
そのため、情報の共有や集約が最も困難な問題だと仰られていた。
2016年4月29日
・益城町
益城町の中で最も家屋の倒壊が激しかった地区を訪問。
まさに壊滅的な状況だった。狭い範囲ではあるが、(東日本大震災などと比べると)家屋の倒壊、道路の亀裂などは地震の大きさを物語るには十分すぎる状態であり、言葉がなかった。
この地区では29日現在でも断水が続いており、仮設トイレが所々見られた。
・西原村(河原小学校・村役場)
西原村はメディアにも取り上げられていたので、訪問させていただいた。
メディアによると、西原村の住民の皆さんは、災害への意識が非常に高く、事前に職業別リストなどを作成するなど、災害時に情報の収集や発信をどのようにしていけば良いかを準備していたため、大きな混乱がなく、対応ができているとのことだったため、これまでどのような取り組みをしてきて、どのように意識を住民の皆さんが高めていったのかを、ご迷惑とは思いながら聞かせていただけないかと思い訪問した。
実際、医療相談室などが設けられており、地元の被災者でもある看護師の方々が有志で避難者のケアにあたったりしており、素晴らしい村であることは間違いないと思うが、メディアの報道は事実とは異なるようだった。
役場の方の話では、決して住民の意識が高かったというわけではなく、結果として情報が集約され、発信が上手くいったとのことだった。これは、災害への意識的な事前準備ではなく、人口7000人という小さな村において、誰もが顔の見える環境だったことが大きいようだった。つまり、だれもが隣人とのつながりが強く、誰がどのような状態でどこに住んでいる、というような情報を地域ごとにそれぞれが知っていたためということであった。
結果として、住民の方々がそれぞれ自分のことだけでなく、周囲の人々の情報も役場にあげることで、情報の収集がスムーズに行われたということだった。
これはある意味理想的ではないだろうか。しかしながら、東京などの大都市では現状望むべくもないものであることも事実である。
そして、メディアの相変わらずの煽るような偏った報道は、東日本大震災のときもそうだったが、報道機関として非常におかしいと思う。
・南阿蘇村
崩落した阿蘇大橋の近くでいけるところまで行ってみた。
ここは家屋や道路などの物的な被害は私たちが今回の熊本訪問で見た中で最大の被害だった。
道路は裂けて陥没し、知らなかったら運転していて気づいたら落下してしまうような状態だった。
その惨状はどこか現実感のないようなものだったが、私たちが訪れた場所は居住地ではなく別荘地だったため、人的被害は物的被害に比べると少なかったのかもしれない。
しかしそれでも、老後の余生をゆっくりと過ごすために建てた別荘が見る影もなくなっているのを前に、老夫婦は寂しそうだった。
それでも片付けの手伝いを申し出ると、「他のもっと大変な方の手伝いをしてあげてください。私たちはのんびりやるので大丈夫です。」と仰っていた。
自分の無力さを改めて感じさせられる瞬間だった。